作家詳細
作家情報
| 作家名 | ファウスト・メロッティ |
|---|---|
| 作家名(欧) | Fausto MELOTTI |
| 生年/生地 | 1901/イタリア |
| 没年/没地 | 1986/イタリア |
| 解説 | ファウスト・メロッティ(1901年イタリア、ロヴェレート生まれ 1986年ミラノで死去)は豊かな文化伝統を備えたイタリア北部の街ロヴェレートに生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、学校教育によって美術にも目覚めた。1919年ミラノ工科大学電気工学科に入学し、同時にドビュッシーやストラビンスキー等の音楽を探究する日々を過ごす。メロッティが美術の道を歩むようになった背景には、同郷の未来派作家フォルトゥナート・デペーロの存在があった。1923年1月10日、デペーロによって開かれた「未来派の夕べ」にメロッティは音楽愛好家として参加し、多くの建築家や芸術家と出会ったのである。そして1928年、ミラノのブレラ美術学校に入学し彫塑の教室で学ぶ。同じ教室にはルーチョ・フォンタナがいた。1930年代には陶製の小彫刻を制作し多くのトリエンナーレに出品すると同時に、メロッティ独自の理論による抽象彫刻の発表を始める。中でも1935年5月、ミラノのミリオーネ画廊における最初の個展で発表した彫刻作品は、音楽の基本理念の一つである「対位法」を応用しており、音楽的価値を幾何学的な抽象形態へと転換するというその思考が、多くの人々の注目を集めた。しかしながら同個展は批評家たちには受け入れられず、特に未来派を先導した一人であるカルロ・カッラからは主知主義的であると酷評を受けた。 ムッソリーニ政権下に於いては、陶器やテラコッタによる彫刻制作に取り組み、戦後も制作を続けた。メロッティは1950年代から1960年代にかけて「アヴァンギャルドの風潮」が戻ってきたと判断し、1962年7月発行の『ドムス』誌に「1935年と1962年の抽象彫刻」というテキストで自らの抽象芸術論をあらためて表明し、長い沈黙の正当化を試みる。さらに1966年のヴェネチア・ビエンナーレで開催された「イタリア初期抽象主義の諸相 ミラノ−コモ 1930~1940」展における発表は、メロッティの抽象彫刻が認められるきっかけとなった。さらに1967年ミラノのトニネッリ画廊での個展によってイタリアの批評界にも広く認められた。同展にはメロッティの作品として広く知られる真鍮を引き延ばした線材による詩情溢れる作品も数多く発表された。 当館が所蔵する《若木》(1965/71年)は、この抽象作品復活期に試みられた作品で、1930年代に制作された「対位法」を厳密に応用していた作品に形態的には近似しながらも、樹木という自然界に存在する対象物を主題としている点において、抽象と具象、人工物と自然、現代的と古典的といった対照的世界を表すという新たな観点を見出すことができる。また、おそらくはこのような二つの対立軸の存在は、中心を二つ持つことによって成立するメロッティの本作品の基本的構造である楕円形に、象徴的に示されているだろう。(中井康之、2023年7月) |