作家詳細
作家情報
作家名 | 下村良之介 |
---|---|
作家名(欧) | Ryonosuke SHIMOMURA |
生年/生地 | 1923/大阪府 |
没年/没地 | 1998/京都府 |
解説 | 下村良之助は1923年に大阪で生まれた。父親は能楽師の太鼓方であった。1935年京都の嵯峨小学校に転校。中学進学に際し美術を選択する。叔父の知人で当時京都市立美術工芸学校の教諭だった金島桂華に指導を受け、同校の日本画科に入学する。続けて京都市立絵画専門学校に進学し、学徒動員で軍隊に入るまでの8年間を日本画の世界に身を置いた。1943年に入営して見習士官として満州、台湾などに赴く。1946年に復員、高等女学校の教諭に就く。1948年、三上誠、山崎隆等、同じ絵画専門学校出身者によって結成された「パンリアル美術協会」に参画した。そのグループ名は三上が広義のリアリズムを標榜して名付けたもので、当初は陶芸作家や洋画出身者なども入会していた。下村が参加した時期には「日本画(膠彩)に象徴される日本文化の革新を指向するために、日本画に会員を限定」していた(不動茂弥『彼者誰時の肖像』1988年)。第2次大戦に参戦し、凄惨な現場を体験してきた下村は、優美で典雅な表現を戦時中に於いても保持し続けた旧来の日本画の在り方に対して強い違和感を覚えるようになり、三上等が主張していた日本画の革新運動に共鳴したのであろう。日本画に限った「パンリアル展」へは第1回展(1949年)から参加している。当初は戦後日本の絵画動向として多く見受けられるキュビスム様式の援用による群衆像等を描いていたが、1950年代中頃から繊細な線による抽象化された鳥を主題とした作品を描き始める。下村は此の国で古来より描かれてきたその主題を、日本人としてのアイデンティティを示すために選択し、さらに、日本画法の特色である線描表現に専ら取り組んだのである。さらに、膠を用いた伝統的日本画材では難しかった凹凸を伴ったマチエールを、紙粘土という素材を用いて試行を繰り返し、独自なマチエール表現として成立させていった。当館所蔵の《旺》《吁》《翔》(全て1961年)は、下村のそのような試行を繰り返していた頃の作品で、それぞれに抽象的な表現へと変容しながらも、鳥という主題が伝統的領域としての日本画を示唆するだろう。後に、紙粘土によるマチエールは線描表現を凌ぎ、レリーフ彫刻状の表情を生み出した。また《月明を翔く(宇)》(1987年)は、そのようなモニュメンタルな要素を備えながらも、月という画題を取り込み、日本画との関係性も維持している。(中井康之、2023年9月) |