作家詳細
作家情報
作家名 | 吉田克朗 |
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作家名(欧) | Katsuro YOSHIDA |
生年/生地 | 1943/埼玉県 |
没年/没地 | 1999/神奈川県 |
解説 | 吉田克朗(1943年 埼玉県生まれ1999年神奈川県鎌倉で死去)は、1964年に多摩美術大学に入学し、斎藤義重教室で学んだ。卒業後、横浜市内で先輩たちが自主運営していたアトリエで、関根伸夫、菅木志雄、小清水漸、等と共に制作活動を続ける。1968年5月、第8回現代日本美術展のコンクール部門で、机を半分に切断した作品《Cut 1》が入選する。同年10月、関根伸夫の《位相-大地》制作に参加した後、吉田の作品に大きな変化が現れる。例えば、巨大な鉄管に綿を詰めた《Cut-off》(1969年)のような、既成概念を取り払われた“もの“が存在自体を顕わした作品を発表する。《Cut-off No.2》(1969/90年)は、それに加えて、巨大な角柱に厚さの異なる4枚の鉄板が違う角度でたわむことによって重力という見えない力を表す。それらの作品は「Cut」という単語で示されているように、日常(から)の切断を現すが、前者の作品が物理的な行為であることに対して、後者の2作品は、日常的な意味からの切断を示唆するだろう。 吉田は同時期に版表現を始める。写真製版を用いて風景の一部を切取り入れ替える手法によって、吉田は関根が大地と格闘した方法を再現する。《WORK”8”》(1970年)は、やはり写真製版によって日常的光景(道を行き交う人々)から、人物を取り出して網点を掛け、白黒の印影で表し出した元の光景に戻している。日常を送る人間を無作為に取り上げ、日常の中に埋没する人間存在をさりげなく表現している。吉田のその版画作品は評価され、「第7回東京国際版画ビエンナーレ」(1970年)をはじめとして国際版画展に出品するようになる。1973年には文化庁在外研修制度によってイギリスに留学。吉田は留学先で版画技法の可能性を実感するが、そのことが逆に自らの芸術を成立させる上で障害となることを予感し、写真製版を用いたこのような版画制作からは離れた。 80年代後半から晩年に至るまで、吉田は画布に向かい黒鉛を用いた素手による表現に取り組む。当館が所蔵する《触“体−63”》(1989年)をはじめ、〈触〉と名付けられたそれらの作品は、表現することを否定した「もの派」の作品群とは対照的な存在と捉えられかねない。しかしながら、吉田のこれら一群の作品は、イメージをつくり出すことを意図している訳ではない。布目が無くなる程に地塗りした画布上で黒鉛を付けた手によって格闘し、例えようのない何ものかを生み出しているのである。それらの吉田の後期作品は「もの派」時代より独自性を勝ち得ているとも考えられる。(中井康之、2023年6月) |